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ブラックからグリーンへ

原油生産について

IEA(International Energy  )が提供しているWorld Energy Balance Highlightsのデータはエネルギーに関する豊富な情報が含まれており、大変興味深いものです。このデータから、世界の第一次エネルギーのエネルギー量とその推移についてグラフを作成しました。IEAのホームページは以下の通りです。
https://www.iea.org/reports/world-energy-balances-overview

エネルギー量合計=石炭+原油+天然ガス+原子力+再生可能エネルギーおよび廃棄物等
単位はペタジュール

1971年  235,605

1980年  304,734

1990年  367,666

2000年  418,956

2010年  535,062

2020年  592,625

となっており、50年間で約2.5倍に増加しています。

次に上記の中で原油の生産量推移をみると以下の通りです。

1971年  106,858

1980年  132,873

1990年  135,716

2000年  155,372

2010年  171,827

2020年  176,809

となっており、50年間で約1.7倍に増加しています。

原油の比率は低下傾向にありますが、依然として、非常に重要な資源であることがわかります。

原油、あるいは石油は産業の様々な用途で使用されています。エネルギー源というだけでなく、我々の日常生活には欠かせないものとなっています。

1859年 ドレーク大佐ことエドウィン・ローレンティン・ドレークがペンシルベニア州タイタスビルで地下の石油鉱床を発見してから今日に至るまで、石油は様々な人間ドラマを生み出してきました。石油の歴史、物語を読むと、そのスケール(金額)の大きさ、地理的な広さ、政治的、地政学的な重要性、関わっている分野の多様さ、等に圧倒されます。

石油採掘や生産に係る川上部門の物語は魅力的ですが、当サイトの趣旨に関係が深いのは川下部門だと思われますので、石油製品について、石油の用途がどのような歴史を辿ったのかについて、探っていきたいと思います。

世界の全エネルギー源の生産推移 IEAから
世界の原油生産高の推移

石油の需要拡大

石油生産が拡大したのは1860年以降のことです。当時、石油(灯油)は居宅や会社、工場などの照明源として使用されていました。(今でもオイルランプ、オイルランタンという名称で楽天、アマゾン等で販売されています。)しかし、1880年頃エジソンが白熱電球を発明し、製造販売を拡大したことで、灯油ランプは廃れていきます。照明の需要の担い手は灯油から電気へと移行しました。

その頃、ヘンリーフォードはガソリン自動車を開発し、1903年フォード・モーター社を設立します。1908年フォード・モデルT(T型フォード)が発売され、大ヒットします。この頃から自動車の時代が始まります。価格が下がって自動車の大衆化が進み、生産が拡大しました。これに伴い、石油の需要は内燃機関用の燃料として急拡大します。

1892年 ルドルフ・ディーゼルによりディーゼル機関が発明されます。これを機に船舶用燃料が石炭から石油(重油)へと移行しました。液体である石油は燃料補給が容易でコスト削減につながります。ディーゼル機関は熱効率が高く(蒸気機関で必要だった)ボイラが不要で機関を小型化できる利点があります。ディーゼルエンジンは1910年代から普及し始めて、1960年には大型船の6割がディーゼル船になったとのことです。*

*(経済発展と環境規制の歴史における舶用ディーゼルエンジン技術の変遷 文責 日立造船 藤林孝博)


自動車、船だけでなく、飛行機、トラック、建設機械など移動運搬の機械の燃料はほとんど全てが石油から作られています。



Wikipediaによると1920年 スタンダードオイル社がプロピレンからイソプロパノールの合成に成功し、それ以後石油から化学製品が作られるようになったとのこと。今や、プラスチック製品、合成繊維、合成樹脂など我々の生活に不可欠なものが石油から作られています。

このほか、アスファルトも石油を原材料としていますね。調べればもっとたくさんの物が石油と関係していることがわかるでしょう。


IEAのWorld Energy Balance Highlightに1971年以後の石油製品生産量の推移がわかるデータがありました。


これをみると、輸送用燃料の需要が一貫して増加していることがわかります。石油製品全体の生産のうち、増加しているのは輸送用燃料とその他最終消費であり、工業用、居住用、商業公共サービス用の需要は減少傾向にあることがわかります。



この50年の間、大きく経済成長、発展した割には石油製品の生産がそれほど増えていないことがわかります。それだけ効率化が進み、資源を有効に利用してきたと言えるのではないでしょうか。

石油製品の内訳と推移 IEA World Energy Balance Highlights

環境汚染の発生(酸性雨の事例)

石炭、石油といったエネルギー源を活用することで、人類は飛躍的な経済成長を遂げてきましたが、同時に環境汚染の問題を引き起こしてきました。一口に環境汚染と言ってもその種類や影響は多岐に及んでおり、このサイトでその全てを扱う力はありません。ここでは、岩波新書の「酸性雨」(石弘之著)をベースに、大気汚染の問題に関して概観したいと思います。

酸性雨とは、ph5.6以下の雨のことで、その原因は主に硫黄酸化物と窒素酸化物にあります。この酸性物質は自然現象(火山の噴火など)で生じることもありますが、人間の活動によって生み出される場合もあります。人間が原因である硫黄酸化物は石油、石炭など化石燃料の硫黄分燃焼時に発生します。窒素酸化物の大部分は工場の排煙と自動車の排ガスが原因です。

20世紀、人類が化石燃料を大量に利用し始めると、各地で大気汚染が問題となりました。社会的に大きな問題になった時は、その都度対処療法的な対策がうたれて、汚染状態が和らぐこともありました。しかし、1960年代から70年代にかけて、広範囲に渡って酸性雨が観測され、その被害が様々なところに及んできました。「酸性雨」(石弘之著)ではヨーロッパと北米にみられた被害の事例が記載されていますので、引用したいと思います。


1985年 ドイツのデュッセルドルフ、ケルン、エッセンなどの都市にスモッグ警報が発令、警報基準の2.5倍もの値が観測された。ケルン大聖堂の天使像が腐食し、ステンドグラスがくすんで図柄がわからなくなった。

同じ頃、イギリスのウエストミンスター寺院の尖塔や石像が酸性雨の犠牲となっていた。このほか、セント・ポール大聖堂、リンカーン聖堂、ヨーク教会などイギリスの歴史的建造物は全て外壁や彫刻に腐食などの被害がみられた。

スェーデンのストックホルムにあるリダーホルム教会の尖塔、フランスのランスにある大聖堂の石像、ローマやミラノにある多くの青銅や石像、遺跡、ベニスのサンマルコ聖堂の青銅の馬、オランダのユトレヒト大寺院のカリヨン。

ヨーロッパにある大聖堂のステンドグラスが色あせてきたのも80年代。ドイツアウグスブルク大聖堂、イギリスカンタベリー大聖堂、フランスシャルトル大聖堂、など多くの被害が確認された。

大気汚染がひどかったアテネでは、70年代、パルテノン神殿がボロボロになってきた。神殿入り口にあった5体の女神像カリアチッドは腐食がひどく、アクロポリス博物館のガラスケース内へと移された。

ニューヨークでは自由の女神がボロボロになり、80年代半ばに修復工事を実施し、1986年に修理が終わった。セントラルパークの中央に立っているエジプトのオベリスクは大気汚染で腐食が進んでいた。ゲティスバーグの国立軍事公園にある記念碑や銅像が酸性雨で腐食し、1989年緊急宣言が発せられた。

環境汚染への対策

1970年代から80年代にかけて、欧米諸国で酸性雨の被害が顕著に現れてきました。それに対して、各国の政府は法令を整備し対策を打ち始めます。

1972年 ストックホルムで国連人間環境会議が開催されます。スェーデンは「越境大気汚染 大気および降雨中の硫黄化合物の環境に与える影響」という報告書を提出し、問題の深刻さと、多国間で協力して対策をとる必要があることを訴えました。

1975年 ヘルシンキで全欧州安全保障協力会議が開かれます。その席で、ソ連のブレジネフ書記長が、東西欧州が協力して取り組むべき問題を議題として提案しました。その議題に、「エネルギー」、「輸送」、に加えて「環境」が含まれており、この会議が広域酸性雨対策の条約制定につながっていきます。

1979年 ジュネーブにて米国、カナダ、ソ連を含む欧州35カ国が「長距離越境大気汚染条約」に署名しました。その後、この条約に付属する議定書が採択され、環境保全が前進します。

1983年条約締約国会議にて、北欧諸国は、83年から93年までの間に、硫黄酸化物の排出を80年に比べて30%以上削減しようとする提案を行います。オーストリア、スイスは窒素酸化物の30%削減を提案します。それに対し、イギリス、米国、フランス、東欧諸国は反対します。

1984年全体の合意が得られず、進展が進まない状態を打開すべく、一部の国がオタワで「酸性雨に関する環境相会議」を開き、独自に硫黄酸化物排出量の30%を削減する協定に署名します。

1985年ヘルシンキにて、条約の第2議定書が採択され、30%削減の方針が合意を得ました。この時点で米国とイギリスは同意せず、態度を曖昧にしていましたが、国際社会の圧力により、趣旨に賛同することになります。

このように、多国間に関わる問題を解決していくには長い時間を要します。関係国にはそれぞれの国内事情があり、様々な利害が絡むので、そんなに簡単には進みません。それでも、環境汚染を放置できない、という点については利害が一致しているので、最終的には合意が得られ、問題改善に向けて進み始めました。

硫黄酸化物の排出量地域別推移に関するグラフがOur World in Dataにて提供されています。このグラフをみると、1960年代から1980年代前半にかけて、欧州地域における硫黄酸化物の排出量が急増していることがわかります。しかし、その後は急速に減少し、2010年の排出量は1960年以前の数値にまで減っていることが見て取れます。

もちろん、問題が解決したわけではありません。硫黄酸化物に関しては、ピーク時に比べてかなり減少してきたとはいえ、まだ多くを排出しています。それでも、上記の事例は、利害や事情の異なる国が共通の目標に向かって協力できること、事態の改善に向けて一定の結果を出したこと、を示しています。

現在直面している気候変動、温暖化といった地球環境問題は、酸性雨よりもはるかに困難な問題だと思われますが、決して解けない問題ではない、と思っています。




硫黄酸化物排出の地域別推移 Our World in Data

当ホームページは、SDGsの精神に基づき、人為的活動によって崩れつつある地球の生態系バランスを、これ以上崩壊させることなく、なんとか元に戻すにはどうすれば良いか、美しい母なる地球環境を後々まで残すためには今何をするべきか、といった問題を扱います。
様々な観点、側面から問題を分析し、進むべき道、方向性を探っていきます。

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